2004年外国人による日本語弁論大会 発表原稿
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「真実を守りつづける旅−私の輝く人生」
サイ セイ
 「乾杯!」2000年12月25日。
その日、中国の大連では、友人たちと私のクリスマスパーティが行われていました。

当時の私は、空港社員として中国の大連空港に勤め、生活が安定し、のんびりした毎日を過ごしていました。
何十倍もの競争に勝ってみんなのあこがれの空港社員となった私を、両親もとても喜んでくれていました。

しかし、私の気持ちは複雑でした。
仕事は全く面白くなく、毎日何も考えずにただ機械みたいに動いているだけ。
「私のやりたいことは、こんなことじゃない!」その気持ちは日に日に強くなっていきました。

私は悔いの残る人生を送りたくない、もっと素晴らしい自分がきっとどこかに潜んでいるに違いないと思い、本当に自分のやりたいことを見つけるため、日本へ留学することを決意したのです。
それは、一度手に入れた豊で安定した生活を捨てて、すべてをゼロに戻すことを意味していました。
それでも、夢を追いたいという気持ちは抑えることができず、私の心は火のように燃えていました。
これからの道はどんなに険しくても、決して恐れない!私は心の中で強く決心しました。

飛行機で関空に降り立ったのは、2001年の秋。日本は、すばらしい紅葉の季節でした。

夢を追う旅が今まさに始まったことに、私は、わくわくしていました。
しかし、現実は想像よりずっと厳しいものでした。
日本に来るまでは、言葉が通じないということがこんなにつらく、みじめなことだとは、思ってもみませんでした。
また、新しい生活を始めるということは、新鮮である反面、いろいろな問題に一人で立ち向かっていかなければならないことでもあったのです。
部屋の中にはわずかに学校が用意してくれた敷き布団と掛け布団だけ。
知り合いもおらず、しばらくの間は、壁が私の友達でした。

そして2ヵ月後にクリスマスがやってきました。
日本語もわからない、バイトも見つからない、お金もだんだんなくなっている私は、暗闇の中に落ち込んでいました。
冷たい風が入ってくる寒いアパートで、ふと一年前の楽しかったクリスマスパーティを思い出しました。

私の留学生活はまだまだ落ち着いていない状態。
今度はケーキもない、きれいな服もない、やさしい家族や友人たちも近くにいない……そんな寂しいクリスマスでした。

せめて気分だけでもクリスマスを味わおうと、京都のにぎやかな街並みをぶらぶらしましたが、人々の陽気な声が聞こえてくるたびに、涙があふれて止まりませんでした。
涙が、鴨川の水と一緒に流れていきました。

しかし、いつまでも落ち込んではいられません。「昔の自分はもう終わった、今は自分が選んだ道で前に進むしかない!」と頭がはっきりし、翌日の朝、私はもう一度勇気を出し、アルバイトを探すために、目につく限りの店を一軒一軒訪ねて歩きました。
しかしどのお店の人も私の下手な日本語を聞いたとたん、「残念だけど」「他をあたって」と、断りの言葉を口にしたのです。
やはり片言の日本語で、何か仕事がみつかると思ったことが間違っていたのだろうか…。
でも私は、本当の自分を知るために、自分の夢を追うために日本に来たのです。

だから簡単に困難に頭を下げるわけにはいきません!「日本語がわからないと何もできない。
だからわたしは今、アルバイトを探す代わりに日本語を勉強しよう!」図書館とカップラーメンの毎日が始まりました。

1月のある日、たまたま図書館で知り合った友達の紹介で、思いがけず、駐車場のバイトが決まりました!あまりにもうれしかったので、その日の晩ご飯はカップラーメンではなく、自分へのお祝いとして、初めてお店で本当のラーメンを食べました。
日本のラーメンは本当においしかったです!

やっと毎月ちゃんと給料が入って来て、なんとか生活がすこし落ち着いてきました。
そして、次に私が決意したのは「日本語能力試験1級」への挑戦だったのです。
日本語の勉強を始めてまだ半年の私にとって、その年の1級試験に受かるのはほぼ無理に近いことでした。でもやはり私は受けてみようと決めました
。そんな私はもっと勉強時間がほしかったのですが、高額の学費と物価の高い日本での生活費を稼ぐため、詰め込んでバイトを続けないと生活していけない状態でした。
しかし必死に生活費を節約し、疲れている体を我慢し、睡眠不足の毎日で勉強を続けました。
そして、粘り強く努力した結果、日本語の勉強をはじめてわずか1年1ヶ月後に、私は見事に日本語1級試験に合格することができたのです!
合格通知書を開いた瞬間、鼻の奥がつーんと熱くなり、熱い涙が流れてきたのを覚えています。
そのうれしさはいつまでも忘れられないものになりました。
それまでがむしゃらに突き進んできた日本での留学生活でしたが、気がつくと進路を選択しなければならない時期にきていました。
最初は、漠然と京都大学の社会人間学部に行きたいと思っていました。
でも、絵が好きな私はデザイナーになることも夢だったのです。そして、自分の本当にやりたいことは何か、真剣に考えてみたとき、子どもの頃からの夢であるデザインの道を進んでいく自分の姿が浮んだのです。
結局、みんなの憧れの京都大学をやめ、デザイン専門学校へ進学することを選びました!今の私はデザインの勉強で精一杯頑張り、充実した毎日を過ごし、たくさんの喜びを得ることができています。
私のこれからの夢は、すこしでも人の心を明るく、暖かくして和らげることができるようなデザインをすることです。
これからも素直な自分の気持ちを大切にし、納得できる人生を張り切って頑張って生きて行きたいです。

私の心は、一度は何も見えない真っ暗な夜の中で落ち込んでいましたが、今は明るい太陽の下で、とても元気に生き生きと咲くひまわりのようになりました。
そして、一度すべてがゼロに戻った私の人生は、自分の努力で、たくさんの幸せをつかむことができました。その真実を守り続ける心が自分を救ったと、今私はそう思います。この大きな宇宙から見れば、私たちは蛍みたいに一瞬で消えてしまうようなものです。
でも、だからこそ私は、決して時の流れに身を任
せたくないのです。

せっかくこの世界に生まれて来たのだから、きっと何か自分にしかやれないことがあるだろうと信じています。蛍みたいに小さくてもいいから、生きている限り輝きたい。
困難を怖がらないで、落ち込まないで、自分のことを信じて、夢を追う旅へと飛び立ちましょう!

山を登って、海を渡って    

私は明るいものを探し続けて来た

今、私が見たのは、暗闇の中で輝いている素直な自分の姿 




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