「隣同士の垣根を越えて」
キム ヒョン
  皆さん!

 私は韓国人です。しかし、私は京都生まれで14年近い期間をここ京都で過ごしてきました。
父が京都大学を卒業し、その後も京都でずっと勉強していたので、私も人生の半分の時間を京都で暮らすことになったわけです。
当然私にも幼いころからの日本人の親友がいます。
彼とはとても仲が良くて毎日のように遊んだほどでした。

 しかし、私はその親友のお母さんが正直なところ大嫌いでした。
なぜなら彼のお母さんは私が韓国人であることを理由に、私に特につらくあたったように感じられたからです。
その友達と一緒にイタズラをして叱られた時も私ばかり叱られていました。
だから私は彼のお母さんのことをどうしても好きになれなかったのです。
韓国へ帰り、大学へ進むことになった私は、その友達のお母さんのことを一般の日本人の象徴として捉えてしまい、日本人はみんな韓国人を嫌っていると考えていました。

 しかし、そんな私の考えを根底から覆すような出来事がありました。
私の考えていたことは大きな間違いだということが分かったのです。そんな出来事を皆さんにぜひ聞いていただきたいと思います。

 大学を卒業した後、大学院に進むため日本に戻ってきた私は久しぶりにその親友の家を訪れ、夕食をご馳走になりました。
その際、友達のお母さんから次のような経験談を聞きました。

 話は60年の時間を遡ります。
韓国が日本の植民地だった1940年、友達のお母さんは韓国の南にあるワンドという島で生まれ育ちました。そんな幸せな時間も束の間、ピョンヤンで終戦を迎えた彼女の家族は旧ソ連軍に捕らえられ、“女を出せ”と言った旧ソ連兵士の姿は今も彼女の記憶に鮮明に残っているそうです。まだ食糧事情も厳しく、満足に食べられない状況が続いていました。
そんな厳しい状況の中、自分もろくに食べていないのに、食べ物を分け与えてくれた一人の韓国人のおばさんがいました。
そのおばさんはそれだけでなく、まだ幼かった当時の友達のお母さんになにかと優しくしてくれました。

 友達のお母さんはその名前も知らないおばさんのことを一生忘れられないと言いました。
見ず知らずの外国人である彼女を家族のようにしてくれたおばさんには今でも感謝の念を忘れたことはないと言います。

 “ヒョンちゃんは後で偉い人になってほしいわ。それで日韓両国のため、いいことをしてね。”

 この話を聞いて私は何とも説明できない気持ちを感じました。
植民地時代にもそんなに日本人と韓国人が仲良くしていたのを聞いて、とてもショックを受けたのです。
それどころか、終戦の時、日本人は韓国人から報復としてひどい目にあったのではないかと思っていたので、日本史を専攻していた私にとってその話はとても意外でした。

 そして、それ以上に意外だったのは、子供の時私につらくあたったその親友のお母さんが実は私のことを親身に考えてくれていたことでした。
彼女が私に厳しくしていたのは韓国人に対する嫌悪感からではなかったのです。
それはむしろ、韓国人に対する親しみから私を自分の息子のように扱おうとする彼女の愛情によるものだったのです。

 やはりどこの国の人でも人間と人間の間では国を超えた何かがあるのだとしみじみ感じました。
昔のあのおばさんとのきずなを大切にしている友達のお母さんをみて、どうして日本と韓国はお互いを非難しあっているのかと思いました。

 人と人の間で国籍などはいらないのではないでしょうか。
そんな国籍よりもっと大事なのは人と接し、きずなを作ってそれを大切にすることではないでしょうか。

 この話を聞いて私は自分がこれから何をすべきかと考えてみました。
過去のことにこだわり続ける韓国人とそれを否定している日本人。
お互いに本当に必要なのは、このようなきずなの元となる愛ではないでしょうか。

 私は京都でのこんな大切な経験を生かして、日韓両国の関係改善の一翼を担いたいと思います。
それこそが私が生まれた日本、そして私の母国、韓国に恩返しをすることだと思います。

 どうもありがとうございました。


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