日本での経験と将来の私 「日本での勉強と私の夢」 |
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エスエムアブドゥル カリム |
怖い!怖!何が怖いの?こんな広い寮に一人ぼっちでいるってことは怖いんじゃない!君は男でしょう。 だって怖いという気持ちには男と女は関係ないでしょう。 ああ、それはそうじゃ。 これは日本に来てから6ヶ月後、高知国音高等工業専門学校の寮で親しかったマレーシアの一人の先輩と私の会話でした。 私は高校卒業後、来日しました。 来日する前、まだ18才と若く、小学校2年生のとき高校の先生をしていた父を亡くした私は、母国バングラデシュに母一人を残して留学するつもりはありませんでした。 だから日本に来る前に母国のダッカ大学にすでに入学し、あこがれていた父の仕事、つまり大学の先生になるために必死で勉強していました。 ところが日本大使館からの奨学生として日本で留学する通知が私の心を一変させることになりました。 私は子供のときから日の出の国として知られている日本の美しい子供のことや、広島・長崎での原ばくのおそろしさのことを知っており、同じアジアの国なので文化的に似かよった点が多くあると思い、とても親しく感じていました。 だから、留学通知が来ると日本専門以外にも文化など色々なことを学んで立派な先生になろうと心に決め、母に相談せずに日本への留学を決心しました。 だが日本語がまったくわからない私は、世界で難しい言語の1つである日本語を自分のものにして先生になる夢を果たすことができるのだろうかと心配しながらもチャクチャクと準備を進めていました。 バンコク空港に到着、待ち時間8時間。 出発前何も食べられず、涙を流しながら家族と別れた私は腹がペコペコ。 もう我慢できない。 友達が食べものと飲みものを買って来て、私に渡しながら飲み物を指して「お前、これは日本語で何というか知っているか」と聞いた。 「知らへんよ!」と答えたら彼は「全ての生物の命のもとである『水』だよ。 覚えておけよ」といいました。 この『水』という言葉が私にとって初めて覚えた日本語であり、ここから私の日本学習が始まりました。 来日直後から東京での日本語の学習が始まり、厳しい毎日でした。 最初の頃は全く分かりませんでしたが、時間の経過とともに少しずつ理解できるようになりました。 しかしながら、漢字と日本語の多様な表現の仕方が私たち留学生をおおいに苦しませていました。 ある日先生が一人の友達に、君のお母さんは「いくつ」と聞きました。 すると彼は2つと答えました。 皆大声で笑っていましたが彼は自分の間違いに全然気が付きませんでした。 こんなふうに東京での6ヶ月の日本語の学習が終わり、日本語の理解が不十分なまま文部省指定の四国の高知高専で勉強することになりました。 高知に着いたときは春休みの真っ最中だったので学生寮に誰もいませんでした。 寮のまわりは田ぼばかりで、夜になるとしーんとしていて外で何か小さな音がしても怖くてふとんの中にもぐってしまったほどです。 怖さに加えてさみしさがわいて来て思わず泣いてしまい、なぜこんなところで勉強しなければならないのだろうかとぶつぶつ言っていました。 このような状況が続いているときマレーシアの先輩が私の所に来たので、思わず彼に「怖い!怖」と言ってしまいました。 新年度の始まりが近づくにつれて寮に学生が戻り、恐怖もある程度おさまりましたが、今度は授業のことを考えて不安を感じ始めました。 入学式後どきどきしながら教室に入り、授業が始まると予想通り先生の話もわからず板書も理解できず、ただただ先生の顔を見ることだけでした。 授業が終わると先生が私のところに来て「君、分かるかい。 分からんことがあったら私のところに来てちょうだい」といって出ていってしまいました。 私は当時、わかるかい、わからん、ちょうだいということばの意味を知らなかったので、何もわからないまま、ただ先生の後ろ姿を見ることしかできませんでした。 先生が土佐出身で授業中土佐弁をしゃべっていたことも授業を理解できなかった理由の一つです。 方言ってまた面白いものですね。 私には学部のとき九州の友達がいました。 ある日一緒に歩いていてお互い自分の部屋に帰るため別れようとしたときに彼は「ばいばいばい」をいって彼の部屋に向かいました。 私は何で3回ばいばいだろうとわからないまま、力のない手を振って部屋に帰りました。 その後、九州では語尾にばいを使う習慣があることがわかり、笑ってしまいました。 方言といえば関西弁。 私は関西弁はあまり話せへんが、お笑いばんぐみ(特にさんまさん)が面白すぎていつも見ております。 私は方言は宝ものだと思います。 だからぜひほこりをもって守ってください。 これはその地域の●●●です。 月日が経つにつれ言葉や勉強にも慣れ、専念して勉強した結果、主席で卒業することができました。 おまけに日本化学会中国・四国支部より表しょうされました。 その後、大学の3年生にへんにゅうし、学部、修士課程を無事に終え、現在ほこりに持っている京都大学の博士課程までにいたっています。 うまくいけば近い将来博士号を取得でき、いつか国の大学の先生になるだろう。 しかし将来の私は大学の先生であることは母国にとってどれくらい役に立つだろう。 確かに先生になると、よく教育させた子供たちを社会に送って国にこうけんできるかもしれないが、はってん途上国のバングラデシュにはそれが十分であろうかといろいろ考えます。 私は日本で勉強したおかげで異文化にふれ、母国にいたときと違う視点から自分の国をみつめることができた。 日本はせん争で全て失っていたにも関わらず、なぜ現在の豊かな国になれたのだろう。 逆に、むかしせいかつがゆたかだったバングラデシュはなぜもっともっとだめになっていっているのだろう。 いろいろな理由があるかも知れないが、大きな理由は教育の差だと思います。 バングラデシュでは教育率がまだまだ50%にも達していません。 教育率が上がらない限り、バングラデシュの発てんは無理だと思います。 政府にだまされるばかりであろう。 私はどれぐらいできるかはわからないが日本での経けんをいかして一生バングラデシュの教育関係の仕事に費やすつもりです。 実際、最近私は、日本人のボランティアを集め、経済的な理由で学校に来れない子供達に奨学金を与えることを始めました。 私のため一人でも多くの子供達が勉強できることを思うとすごくうれしくなります。 日本では勉強する機会がありすぎて、勉強しなかったり授業中にねたりする子供たちはいますが、彼はこんなことができるのは、勉強したくてもできない子供たちの姿を見てないからであろう。 またバングラデシュの発てんには教育とともにしゅうしょく口を増やすため、工業が必要であるに違いない。 将来、日本で学んだ技術をもとに、日本の会社、せい府の協力で化学会社を設立することも私の夢である。 日本の皆さん、私の夢がかなえられるようにおうえんしてください。 夢がかなえれば将来の私は先生であり、教育者でもあり、また社長でもあります。 しかし人生はそううまくいかない。 といって夢をすててはならない。 |