今年の出来事と私 −優しさが中身なら礼儀は包装だ−

テイ ヨウ
鄭  楊

 毎年、たくさんの人との出会い、たくさんの出来事がありますが、その中で忘れてしまうのもたくさんですよね。私も同じです。

 ここで私が話したいことは 今年 アルバイト先の二つの出来事です。

 日本に来てから、いろいろと日本人に親切にしてもらいましたが、アルバイト先でも同じです。
 ある日、いつもやさしくしてくれた坂井のお母さんが両手にたくさんの皿を持ちながら、足元にある皿入れの扉を閉めようとしていました。
同じく両手にたくさんの皿を持った私がちょうど後ろにいました。
私はすぐに、素早く、軽く、足で扉を閉めました。
 すると、坂井のお母さんはいつもと違う、とても不思議な目で私を見つめました。
「テイさん、下品やね、女の子やかい、足を使ったら、あかんよ。」と言って、私に注意しました。
 「せっかく親切にしてあげたのに」と、私はすこしショックを受けました。

 しかし、今になって、私はこう考えています。いくら優しい気持ちをもっていたとしても、それは礼儀を通して相手に伝えるものだと思います。
優しい気持ちを中身に例えると、それを伝える礼儀は包装のようなものです。
中身はどんなに素晴らしくても、包装が悪ければ、相手は中身を見ようともしないかもしれませんし。
包装が悪すぎると、中身まで壊れてしまうかもしれません。
この足の事件は、やはり包装がきれいじゃなかったために、中身が相手に受け止めてもらえなかったのでしょう。

 そして、またある日、店は猫の手を借りたいぐらい 忙しかった日のことです。
私も走りながら、お客さんに料理を運びました。その途中で、パートをしている一人のあばさんが、とても無理して多くの料理をもっていたのを見て、彼女を助けてあげました。
しばらくして落ち着いた頃、そのおばさんが「ありがとう」と言いに来ました。
「いいえ」と私が答えた途端に、そのおばさんは二つの飴を私の制服のポケットに入れながら、「さっき、助けてくれて、ありがとうね」と言い、私は戸惑いました。

 私はとても寂しく感じました。「私の助けはこの二つの飴と同じ価値ですか。」
中国だったら 助けてくれたら、助けてあげるという協力の中で、友情が生まれてきますから 物の交換ではありません。
あの二つの飴をくれたことは、私の助けを物で買われた、交換されたというような寂しい気持ちを私に与えました。

 そのご、日本の友人は
「あの飴はただの飴じゃなくて、感謝をいっぱいこめた飴ですよ。
日本人は物のやり取りの間に、人との付き合いは深くなっていきます。
そのために、日本には、お中元、お歳暮という習慣もあるんですよ。」
と説明してくれましたが、私はこういふうに、相手に自分の気持ちを伝えることを、まだ、まだ、身に付けていないようです。
 日本に来てから、もう六年が立ち、日本語もだんだん分かるようになりましたが、通じるものは言葉ではなく、心だとつくづく感じています。
先に言ったようにやさしさが中身ならば、礼儀は包装です。
包装ばかりに目を向けて、中身を忘れてしまう現代人が大勢いるような気がします。
礼儀はただきれいなものではなく、やさしい心を相手に伝える手段です。
中身がなければ、包装の意味もなくなってしまうのでしょう。

 また、包装を丁寧にしすぎ、包み、包み、また、包むと、せっかくのよい「品物」は、かえって相手に伝えにくいものとなってしまうのでしょう。

 六年前に、私は教育こそ、国の発展を支えるものだと考え、立派な教育者になろうという大きな夢を抱いて、日本に留学しました。
今も変わらずに、同じような夢をもっていますが、もう一つ日本で学んだことを子どもたちに教えたいのです。
 それは、自分の優しさを正しく、やさしく相手に伝えることです。

 中国は昔から「礼儀之邦」と知られて来ましたが、文化大革命の間に、礼儀というものは封建的なもので、煩雑なものだと誤って認識されました。
しかし、先に述べたようにどんなに素晴らしい心のもち主でも、言葉、話し方、礼儀という手段を通して相手に気持ちを伝える他ありません。
手段が悪ければ、せっかくの優しさを十分相手に分かってもらえないだけではなく、誤解から、対立、戦争までになる恐れもあると想像できるでしょう。

 そのために、私は子どもに正しく、優しく自分の気持ちを相手に伝えることを教え、平和という大きな課題でも、私たちの身の周りの小さい、小さいことから実現できることを伝えたいです。


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