私の町と京都 | |
ルー イン 陸 英 |
君がみ胸に 抱かれて聞くは 夢の船歌 鳥の歌 水の蘇州の 花ちる春を 惜しむか 柳がすすり泣く ・・・・・ 涙ぐむよな おぼろの月に 鐘がなります 寒山寺 歌の描いた町は私の故郷蘇州です。 日本に来て最初の日、京都のお母さんがこの歌を教えてくれました。 そして、蘇州が日本人の心にどんなにか美しいイメージが残されたのかがその一瞬で分かりました。 寒山寺の鐘、蘇州の水、橋、庭園、絹の織物などなどが私と日本の方々の心の距離を近づけました。 「いっぺん蘇州に行って寒山寺を見に行きたい」大勢の年輩の日本人の気持ちと同じように、私は大学時代からずっと京都に憧れてきました。 ビザが降りた時、一人外国で生きられるかを戸惑っていた時、家族と友達が励ましてくれました。 彼らの支えのおかげで、私はこの二年間京都と蘇州で楽しく過ごすことができました。 四月に夜桜を見に自転車で出掛けました。 哲学の道を歩きながら、西田幾多郎の「人は人吾はわれ也、とにかく吾行く道を吾は行くなり」という言葉を味わっていました。 橋本関雪博物館の近くにある喫茶店で、美味しいコーヒーを飲んで桜に酔いながら、目の前で蘇州の運河を思い浮かべました。 江南の紫陽花を見るため掘られたその大運河には、私の幼い姿が残っています。 白居易の「緑浪 東西南北の水 紅欄 三百九十の橋」を謡いながら蘇州の橋と水に馴染んできた私の頭の中で、柳のそよぐ姿の上にしっとりした夜桜が重なっています。 夏休み、蘇州に帰りました。 久し振りに拙政園へ蓮の花を見に行きました。 満開の花がとてもきれいでした。 泥から出たのに汚れない蓮の花を譬え、自分の政治家としての態度を表明しようとする持ち主のむなしさを、私は花を見るたびに感じます。 盆栽園でお茶を飲むとき、坂本龍馬のことを連想しました。 考えると、京都は昔政治家たちの活躍した舞台で、蘇州は昔失意した政治家の引退する場所ではなかったでしょうか。 先生のご招待で先斗町で舞子さんと出会いました。 舞子さんは私達が留学生と聞いて、一緒に写真を撮ってくれたうえ、踊りと三味線を演技してくれました。 私はそのしぐさ、笑い方、しゃべり方に強く心打たれました。 と同時に蘇州に匹敵できるもののないことを惜しく思いました。 「寧波の人の挨拶を聞くより蘇州の人の喧嘩を聞くほうがいい」と誉められた蘇州の方言を上手に話せる私は、日本に来て、しつこく京都弁を拒否していました。 しかし、その場で京都弁の柔らかさ、そしてその言葉から現れる女の子の可愛さが伝わりました。 はじめ、「京都には祭りがやたらに多い」と聞いた時、「蘇州より多いわけがないだろう」と疑いました。 しかし、二年が経ち、私は京都の祭りに感心しました。 毎日祭りがあるような気がします。 七月、祇園祭で私は初めて京都の祭りの雰囲気を感じました。 宵山に夜店の食べ物、金魚すくい、女の子の浴衣姿、七月十七日山鉾巡行の人波、全部私の記憶の倉庫に大事にしまっています。 最も目を引かれたのは山鉾でした。 釘を一本も使わずに、全部木で作られたこの鉾を見ると、なんだか蘇州にある断梁殿を思い出しました。 ほぞとほぞあなで作られたあの建物は六百年経っても倒れません。 昔の人に感心しながら、その技術が失われていることを惜しく思います。 幸い、昔から伝わってきた手作りの仕事を蘇州の人はまだ大切にしています。 何年もかかってやっと仕上げる刺繍の屏風、一年ぐらいかかる白檀扇子などは蘇州の誇りとなっています。 京都の品物には名前の前に「京」がつけられていると同じように蘇州の物にも「蘇式」とついています。 陰暦の八月十五日は中国の中秋節です。 この日は中国人にとって団欒の日です。 私は国から届いた月餅を食べながら、蘇州の太湖の水が恋しくなりました。 琵琶湖の水よりまずいのにもかかわらず、その時蘇州の水が飲みたかったのです。 考えると、京都の水は琵琶湖疏水によって供給されていますが、蘇州の水は昔どういうふうに太湖から運ばれたのか、その工事はいつ始まったのか…。 ぼんやりとした時、友達から「外に出てみ、今の月がきれいですよ」という電話がかかってきました。 嘘かと思って出てみたら「素敵!」と思わず叫びました。 台風後の月は格別に綺麗でした。 そして今蘇州の月はどんな姿でしょうか、きっと同じように美しいと思いました。 異郷にいながらこの月で家族の心と私の心が繋がっているように感じました。 神様に感謝すべきです。 おかげさまで、私は蘇州と京都の町を元気に歩んでいます。 そして私の人生は、二つの素敵な町によって花開こうとしています。 |